東欧・プラハへの旅 NO.5 第1日目

現地時間17時35分、ヘルシンキ国際空港を私たちを乗せた飛行機は予定通りチェコ・プラハ国際空港に向けて飛び出しました。
2時間10分のフライト、あっという間もなくチェコ上空にたどり着いて、飛行機はズンズン雲海を破って、空を突き抜けて、降下していきます。
「緑がきれいねー!、緑、緑そして緑、また緑だわ!、ところどころに家の塊が点在していて、あそこは学校、そしてあっちは教会かなー。
きっと小さな村の生活なんだわねー!」
窓側の座席で窓外を見下ろしていたミセスKが、隣に座っている私のために広がっていくロケーションを説明してくれます。

そしてその話を聞きながら私の頭の中にも、のどかな村々の風景が、その風の光が浮かんで、やはり広がっていきます。
 世界地図を頭の中に描いて、チェコの国の場所をたどってみても、本当にあやふやで、私にとって現実から遠く離れた遠い国、幻想的な国、そしてかつて世界史で学んだのだったでしょう宗教革命などもすでにたくさんの記憶の中深くに埋没、ほとんど未知の国でもあります。
 ただ1964年10月・東京オリンピック女子体操で金メダルに輝いたベラ・チャフラフスカの凛とした美しさは、孤高に輝くばかりの優美さは、私の青春の記憶に残っています。
そして忘れることのできない、唯一のチェコ女性でもあります。
1942年生まれの彼女は私より3歳年上、当時私は19歳の秋、まだ視力は充分にありましたし、それから8年後に自分が失明するだなんて思ってもみなかったころのことです。
そして彼女もこの栄光、名声の後自分の人生が国のために翻弄されるだなんて、想像もしていなかったと思うのです、だから私たちは20世紀半ばの子供たちでした。
そして同じ世界の動きの中を育ってきたという一方的ですが、かつての私にはそんなあまやかな親しさを感じていたこともありましたが・・・・。
最近耳にしたニュースでは・・・、その名声の後に国のさまざまな思惑の中で翻弄されたベラ・チャフラフスカ、彼女の女性としての人生、しかし最後までその凛とした美しさを忘れないでその生を閉じたということに、同じ女性として強く喝采の拍手をと思うのです。
 飛行機の出口でフインエア乗務員のみなさんに見送られて、私とウランは空港の床を踏みしめました。
そしていよいよ最後の難関、ウランのチェコへの入国手続きです。
私が持参してきた書類を受け取った検査監氏はやはりかなり背丈の高い男性でしたが、その彼がしばらくそのEU圏内入国英文書類と、チェコ入国のチェコ語で記載されている書類を読んでいましたが・・・・、やがておもむろに「OK」と言ったのです。
本当はもっといっばい英語をしゃべったのですが、私の耳で理解できたのはその《OK》という単語だけでした。
さあこれで盲導犬のウランと、チェコ・プラハの大地を踏みしめることができるのです。
飛行場のドアを開くと、そこはすでに時間的には21時近いのですから夜の帳(とばり)が下りていなければならないのですが・・・・・、まだすっきりと明るい光景がひろがっていて、この地では今の季節は白夜なのでした。
うっちゃんが東京で手配していたタクシーが、といってもまるで小型バスみたいな大きさでしたが、私たちを迎えに出ていてくれて、8名とウランの1頭が乗り込みました、やれやれの気持ちいっぱいです。
しかし二十歳のかなこちゃんはもちろんのこと、疲れを知らないおばさんたちの集団ですので車内はおしゃべりの花がいっぱいです。
そしてしばらく走ると大きな建物の前で車は止まって、それぞれ荷物を持って車外へ出ました。
チャーミングフラツ・オドボルーはすてきな建物です、出入りするドアのところに細かな細工が施されていて、年代の古さ、重厚な雰囲気がありました。
そこが今回連泊で借りる短期宿泊アパートメントの管理会社ビルでした。
時間外でしたが、遠方の国日本から訪れて来る旅行者の私たちをカテリーナさんが待っていてくれて、彼女から5連泊する部屋のキーを受け取りました。
それから私たちは道路を横切って、その向かい側の建物に入っていきました。
エレベーターで4階にあがります、それぞれのフロアに2ドアづつ、室内はほぼ同じようなタイプなんだそうです。

そこに私たちは4人づつ2グループに分かれて宿泊するので、こちらのドアにはミセスKとてーちゃー・クミコ、そしてうっちゃんと私とウランです。
この地帯は年代物の古い民家が入っているビルが立ち並んでいて、そこに手を加えて、短期型の海外からの旅行者宿泊施設となっているということです。
日本でも最近古民家をリホーム、その後会社として立ち上げ管理して、海外からの短期滞在旅行者向け宿泊施設として貸し出している、それと同じようなシステムなんだと理解しました。
ミセスKとテーチャー・クミコは1階のフロアで、そこには広いリビングキッチン、そしてそれぞれ宿泊するベッドルームが、私とうっちゃんは階段を上がって窓際では背中を丸めなければ頭を天井に打ってしまう、そんな屋根裏のような部屋ですが、そこにベッドを2台並べて眠るということになりました。
1階のバスルームはシャワーだけの設備、しかし私たちの階のバスルームには大きなバスタブがそなえつけてありました。
27歳でベーチェットで失明した私はその病気で残っている後遺症は関節のこわばりです、それで朝はほぼ毎日浴槽にしばらく浸かってそのこわばっている関節を温めるという習慣があります。
 今回同じ宿泊グループになったテーチャー・クミコとは不思議なご縁がありました。

とても聡明な英語教師の彼女の嫁ぎ先が、かつて私の高校への通学路にあって、その近所のことはよーく見知っているのです。
「お隣が和菓子を作っているお菓子屋さんだったでしょ、あそこの家には私より2学年上のお兄さんがいたはずなのよ、中学1年生の時に確か3年生だったから。
そして向かい側は建材やさんで、その隣が自転車屋だったはずだけれど・・・・、今はもう違ってしまっていたかしら」「そうそう、そうだわ、よーく覚えているのねー!」というように実にローカルな話で盛り上がってしまいます。
部屋にそれぞれあわただしく荷物を入れると、すぐにウランの食事をすませて、それからまた外出の準備です。
というのはまだこれから夕食を食べに出かけるのです。
日本とチェコとの時差はABOUT7時間、今日の食事はこれで何回目になるのだろうかと思うのですが・・・・。
でも不思議なことに現地時間は22時をやや回ったところです、そう言われてみれば今日はまだ夕食を食べていなかったわというような気分にもなるのですから人間の体内時計を操っている生理とは、なーんて不可思議な、怪しいものなのでしょうか。
通りに出て横断歩道を渡って少し横に入ったところにリョコウガイドブックにも載っている有名な居酒屋さん・ホツポダに私たちははいりました。
もちろんウランも何の問題もなくOKです。
店内にはアコーディオン奏者が入っていて、陽気で楽しいメロディーを奏でています。
注文をとりにまわってきた男性はそのメロディーと同じくらい陽気で軽快な男性というか《おじさん》です。
「ああ、のどがかわいたわ!」と言う人、「おなかがすいたわねー!」と言う人、こちらも負けないほど陽気で楽しい日本女性集団です。
そこでもちろん黒ビールで「チェコにかんぱーい!」「プラハにかんぱーい!」そして「私たちの今回の旅行にかんぱーい!」です。
チェコはなんといってもビールの国、すごーいビールの種類があります、おいしくて、なによりとても安価、それはペットボトルの飲み水よりはるかにビールの値段が安いのです。
そこで運ばれてきた《ポークもも肉焼き》には、気の小さな私はいささか度肝をぬかれて、ビックリ仰天の巻きでした、《もも肉》は本当にブタさんのももの部分で骨がついてきたのです。

そこからそぎ落としながら食べるのですが、やはり私には抵抗感がありましたが、しかしその肉片を口にいれて、ビールを飲むや、一瞬にして不快感はどこかへ吹き飛んでいって、舌鼓をうってしまうほどのおいしさなんです。
チェコは海のない国ですし、長い冬の季節はかなりな厳冬、作物がそれほど育たないのでしょうか、ジャガイモが中心の料理が主なもののようでした。
私とウランの2017年8月8日の1日は、31時間もありましたが、長い一日はこうしておしまいとなりました。

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