ベルナのお話の会

「ベルナのお話の会」の内容

「ベルナのお話の会」を続けてきて

私が主宰しております「盲導犬ベルナのお話の会」とは、ほぼ14年前になりますが、そのころ共に生活していました最初の盲導犬ベルナが11歳で老人性白内障になってしまい、すでに盲導犬としては限界だと獣医の先生に診断された時、それでは目の見えない人間の私と、目の見えなくなってしまった盲導犬のベルナと2人だけで出来る仕事はないだろうかという思いで始めたものです。

そのベルナが平成6年3月に13歳4ヶ月で亡くなるまでお話の会は41回行いました。そして2頭目の盲導犬ガーランドに「盲導犬ベルナのお話の会」はそのまま引き継がれましたが、彼女は白血病で3歳2ヶ月という短い命の子でしたが、それでも7回会を重ねました。そして3頭目の盲導犬ペリラが平成7年11月、私の子どもになりましたが、ここから「盲導犬ベルナのお話の会」も格段の飛躍で回数を重ねて、平成17年の今現在830回を超えようとしております。

このようにお話の会を進めてきました14年の日々は、私のパートナーの盲導犬、しっぽのある娘たちもベルナからガーランドに、そしてペリラへと代わってゆきました。その間に私にはもうひとつ大きな不幸な出来事が重なりまして、平成6年に夫、幸治の49歳の死も受け入れなければなりませんでした。しかしどんなつらい出来事があろうとも、とにかく「お話の会」が途中で断ち切られるというようなことはありませんでした。次から次に襲い掛かってくる不幸な日々の中でも会場に集うたくさんの皆様と心を通わせあうことのできるこの会を続けてこられましたことは、そして北海道から沖縄まで、時には海を渡って韓国に足を伸ばしてまでもこの会を広めてこられましたことは、ベーチェット病という持病を抱えています私にとって何よりの喜びですし、たくさんの皆々様に支えられてのここまでの日々だったと深く感謝いたしております。

それにしても最初は、目の見えなくなってしまったベルナに、もう1度盲導犬として生き甲斐をもたせてやりたい。それと同時に、盲導犬のことをもう少しみなさんの身近な問題として考えてもらいたい。みなさんと一緒に織り成しているこの社会の中に、犬をパートナーとして暮らす私達の生活を自然体で受け入れてもらいたい。そのような思いを胸に、ベルナと2人5脚、自宅の近くの幼稚園を訪ねて、お願いをするというように、手探り状態で始めたものでした。

ベルナとの41回のお話の会は、とにかく老犬の彼女の重ねる年齢の重さを実感する日々でもありました。ベルナは老人性の白内障で目がほとんど見えない状況での活動ですから、電車に乗ってということはほとんどありません。もしかしてホームから転落、事件事故、そんなことになったら…。単に私とベルナだけのことではなく、全ての盲導犬に、そして全ての犬と暮らしているみなさんにご迷惑をおかけしてしまう。それがとても問題だと考えたのです。それで歩いて、バスに乗って、あるいはタクシーでと、とにかく私とベルナだけの力で行くことの出来る範囲の中だけのものでした。そしてこのお話の会でベルナはもう1度、盲導犬としての生き甲斐を、盲導犬としての自信を、よみがえらせてくれました。

それと同時に私には新たな感動がありました。それはこの会に参加した子供達の変化です。私達が幼稚園の中に入ってゆくと、子供達はまるで蜂の巣をつついたような大騒ぎです。ベルナのことを誰もが「犬だー」と言います。ところが20分ほどのお話の会を終えて、私たちが帰る時、「犬」という言葉を口にする子供達はいませんでした。幼い声で「ベルナちゃん」と優しく呼んでくれるのです。「ベルナちゃんまたきてね」と。ベルナはそんな子供達に囲まれてとてもうれしそうです。そして私の心も感動と、大いなる充足感でいっぱいでした。

ベルナの晩年の日々は、このお話の会を私達はひとつの生き甲斐として暮らしていたのです。平成6年3月、14歳4ヶ月の命を閉じるまで、目の見えなくなってしまったベルナはそれでも盲導犬としてのプライドを持ち続けていてくれたと、私はそのように堅く信じております。

私の2番目の盲導犬、しっぽのある2番目の娘ガーランドは、平成7年7月に私のところにやってきました。そしてお話の会はそのまま「盲導犬ベルナのお話の会」と名前を変えないままに、ガーランドに引き継がれたのです。ガーランドが私の子供になるほんの1ヶ月前、幹太が小学6年生の6月に、夫が肺ガンで亡くなってしまいました。それで夫の残した鍼灸治療院「東洋堂」を引継ぎ、ガーランドと共に働くお母さんになったのでした。

ガーランドはとても活発で、そしてとてもやんちゃ な子でした。身体を寄せ合って親子3人ささやかなしあわせを求めて暮らそうと願う私達だったのですが、生きるということはなかなか過酷なものです。突然ガーランドに白血病が襲いかかったのです。私の娘としての生活を1年2ヶ月過ごしただけで、ガーランドは3歳2ヶ月の短い命を閉じなければならなくなってしまいました。ほんの短い期間でしたが、それでもガーランドとは7回のお話の会を開くことが出来ました。この7回のお話の会の中の数回は、6年生の幹太が同行してくれました。それが短かったガーランドとの日々の中で、とても懐かしく思い出されることです。

3番目の娘ペリラとは平成7年11月に出会いました。中学1年生の幹太がお兄さん、1歳3ヶ月のペリラが妹というように、私達は家族の生活を再出発させたのです。そしてすぐに「盲導犬ベルナのお話の会」も、名前をそのままに再会させました。
このペリラと組んでお話の会を始めたばかりの頃、いまでも忘れられない出来事があります。それは平成8年2月のことでした。あるカトリック教会で朝の日曜礼拝の中に、このお話の会が予定されていた日でしたが…、ところが早朝目を覚ましてみますと戸外は激しく雪が舞っていました。それもみるみるうちに雪は降り積もってゆくのです。その教会にゆくためには、わが家からまず徒歩で地下鉄の駅まで行かなければなりません。新宿で乗り換えてしばらく電車に揺られるということなので、積もってゆく雪を眺めながら私の心はとても迷いました。早く決断をしなければますます歩きにくくなることは雪国育ちの私ですから理解できましたが、でもこのまままだ盲導犬になりたてのペリラと駅まで歩いてゆくのもままならない状態だと思うのです。しかし予定されている会は朝礼拝の中にということなので、とにかく始発電車に乗らなければとうてい間に合わないと考えます。それでまだ眠っている中学1年生の幹太をたたき起こして、同行を頼むことにしました。私とハーネスをつけたペリラ、それに幹太の親子3人は手を繋いで、黙々と誰もいない雪の降りしきる早朝の道を地下鉄の駅目指して歩きます。中学生の幹太には彼なりの、そして盲導犬になったばかりのペリラには彼女なりの、家族の絆を考えてもらう良い機会になってくれたと母親の私は今でも懐かしく思い出す家族の心の風景です。

早朝礼拝が終わった後、教会の信者さんが朝ごはんにと出してくださったサンドイッチを私と幹太は向かい合って食べました。「おいしいねー」。そう言った幹太の言葉が、今でも鮮やかに耳によみがえってきます。ただ見ているだけのペリラも満足そうに私の足元にダウンしていました。

そしてペリラと暮らすようになって、私を取り囲む環境がまた一段と大きく変化しました。平成8年5月、私は2冊の本「ベルナのしっぽ」と「ベルナの目はななえさんの目」を上梓しました。ベルナとの生活の中で、人間と犬とがこんなに心を通わせることが出来るのだということが、常に私にとって感動でした。それなら私達人間は、もっと心を通い合わせながら生活をしたいということが、私の願いでもありました。この2冊の本は、そんな私の思いを込めたものです。そしてそのささやかな願いは、実にたくさんのみなさんに受け入れていただけたのです。

「ベルナのしっぽ」は新聞やテレビというようにたくさんのマスコミに取り上げていただけたのです。そしてこの本を原作とした大竹しのぶさん主演のテレビドラマも大きな反響を呼ぶことが出来ました。このような拡がりをみせる日々の中で「盲導犬ベルナのお話の会」は、より大きな活動の場を与えていただけるようになったのです。ペリラと2人で新幹線に乗って、電車を乗り継いで、あるいは飛行機で出かけてゆくのです。またある時には何泊か出先に泊まっていて、いくつかの会を連続して開くということもありました。
私の子供になったばかりのころのペリラの体重は20キログラムそこそこでした。しっぽのある娘達の中では1番身体が小さな子です。その小さな身体で、けなげに私と一緒に頑張ってくれる、この姿には愛くるしさとともに崇高なパワーさえ感じる時があります。ペリラのこのけなげでかわいらしい頑張りが、とにかくこのお話の会を続けてきた大きな原動力だったと私は思っております。

それと同時にひとり息子の幹太の成長が母親の私にとって何よりの支えでした。多忙な日々の中でのお母さん業ですから、ある時から家庭生活はすっかり手抜き作業ばかりでした。母親としての役割さえも、完全に果たせない状態なのです。その中で無防備にいつの間にか巻き込まれてしまった幼い幹太の毎日でしたが、それでも大きな問題も起こさないで成長していってくれました。時には母親不在の寂しさや、やり場のない不満もあったとは思うのですが、しかしそういうさまざまな思いは総て腹に納めて、少年から青年へと幹太は年齢を重ねていってくれたことは、母親の私の何よりの喜びであり、また誇りでもあります。

平成12年春、夫の7回忌の法要をおこないました。 そしてその日、ベルナの、ガーランドの法要もお願いしました。この7回忌をひとつの区切りとして、夫の残した「東洋堂」を完全に閉鎖することにしました。ベーチェット病を持病に持つ私の身体には、もう既に消化出来ないほどの毎日の仕事量でした。それで自分の健康を考えて身辺を整理したのです。原稿を書くという執筆活動と「盲導犬ベルナのお話の会」活動を中心にしての生活にする、そのように自分の生活の建て直しを計ったのです。お話の会もたんに盲導犬のことだけを話す、あるいは盲導犬のことだけを理解してもらう。そういうことだけではなくて、盲導犬と一緒に暮らすこの生活の中から発信出来るものをと考えたのです。「共に生きる社会を、みんなで考えましょう」。これを中心テーマにして、盲導犬との私の生活を理解してもらう。幼稚園、小学校低学年の子供達に。あるいは小学校、中学校でのお話の会には。また高校生や大学生、大人のみなさんへの会に。このような会を想定して、いくつかのプログラムを組みました。

このように私自身の生活環境が大きく変化する中で、常に「お話の会」に情熱を傾けることができたのは、たくさんのみなさんとの出会いが、そしてたくさんのみなさんとの触れ合う喜びがありました。心を通い合わせることの出来た充実感がありました。

ある小学校では、クラスのいたずらっ子がベルナのたばこの火事件の話を聞きながら、大粒の涙をいっぱい流していたと聞きました。またある小学校では、今まで1度も自分から手を上げたことのない子が、大きく手を上げて、私の問いにうれしそうに応えようとしていた。その笑顔が忘れられないと、受け持ちの先生から後日電話をいただきました。中学校では登校拒否の生徒が、盲導犬に会いたいばかりに、その日学校へ出てきたということもありました。高校では退学することを思い留まった生徒がいたことも後日知らされました。

マイクを握って話している時、会場全体が一体になることがあります。目の見えない私にも実感させられるその時の会場の雰囲気です。それは例えようもなく話者の私にとって大きな感動です。そしてみなさんの心を感じると共に、みなさんにも私の心を感じてもらっているのだと、その感動を受け止めます。

このようにたくさんのみなさんと感動を共有出来ることは、なによりの私自身の大きな喜びです。そしてこの感動の中で、未熟な私自身が大きく成長させていただいていると思っております。

ペリラは平成17年8月の誕生日で11歳、私たちは平成8年からのパートナーを組んでのお話の会ですから、すでに9年間、ベルナから始まったこの会も830回を超えようとしています。このペリラの11歳という年齢は、盲導犬としてはかなり高い年齢、犬としても老犬といえます。私もすでにすっかり日本の元気でイケイケドンドンのおばさん年齢になってしまいました。これからは私自身の健康と、ペリラの老犬としての健康をいたわりながら、いつまでもペリラと元気で「盲導犬ベルナのお話の会」を続けてゆきたい。これがこれからの私の人生への大きな願いです。

(平成17年8月)

郡司ななえ(ぐんじななえ)
新潟県高田市(現上越市)生まれ。17歳で発病したベーチェット病により、建設会社勤務中の27歳で失明。現在、東京都在住。「共に生きる社会とは何か?」というテーマで「盲導犬ベルナのお話の会」を主宰。3頭目の盲導犬ペリラと全国の幼稚園、小・中学校、高等学校、大学、そして地域団体などで830回を超えようとしている会をおこなっている。日本文芸家協会会員。日本盲人作家クラブ同人。

(著書一覧)
「ベルナのしっぽ」「ガーランドのなみだ」「見えなくても・・・私」(角川文庫)、「ベルナのしっぽ」「そしてベルナは星になった」(ナナ・コーポレート・コミュニケーション)、「リタイア」児童書シリーズNo. 1~3「こんにちは!盲導犬ベルナ」「がんばれ!盲導犬ベルナ」「さようなら盲導犬ベルナ」ベルナの絵本シリーズNo .1~5「ベルナのおねえさんきねんび」「ベルナもほいくえんにいくよ」「ベルナとなみだのホットケーキ」「ボクがベルナのめになるよ」「ベルナとみっつのさようなら」(ハート出版)、共著絵本「ベルナの目はななえさんのめ」(童心社)、共作写真エッセイ「ペリラの手紙」共著漫画「盲導犬ベルナ物語」(朝日ソノラマ)