世界貿易センター跡地、グラウンド・ゼロの地底から湧き上がってくるあまりの叫び声、悲しみを訴える声、苦しみのたうつ声、絶望的な呪詛の声……。その声、コエ、こえが耳鳴りのように頭に駆け巡って、蜂の巣をつついたように私の頭の中にいつまでも鳴り響いて、昨夜は激しく衝撃を受けて、完全ノックダウン、打ちのめされてしまいました。
しかし一晩深い眠りの中でやっと癒されて平常心をとりもどして、4日目の8月12日の朝本来の私で復活となりました。ウランは『お母さん、だいじょうぶになったの?』と体を摺り寄せてきます。
「この穏やかな日常が私にはとても貴重なんだわね、たとえかなりなショックを受けるようなことがあっても、たとえ四面楚歌の渦中に立されても、なにくそとふんばれるのは、やはりバックボーンにこの日々があってくれるからなのよね」
甘えてくるウランの頭をなでてやりながら、ちょっとしおらしく朝からしみじみな私です。「そうそう、そうだよねー、なにくそなにくそって力も時には必要だわねー」マダムが実にマダムらしくない言葉を言った後、「あはは」と笑います。
そこにメールが届いた着信音があって、画面を見ていたマダムが「あらー!」とうれしそうに「ななえさんよかったわー!」と言いました。成田の検疫所から、この書類を持って、お気をつけてお帰りくださいというメールが届いたのです。この書類さえ忘れないでアメリカを出国すれば、ウランは無事に日本に入国できて、また日本の盲導犬として、私のパートナーとして、復活できるのです。
昨夜私が帰宅早々にベッドにもぐりこんで、即深い眠りに入った後、マダムはウランのその日最後のワンツーのめんどうをみて、寂しそうだから一緒に遊んでやって、そしてDOCTOR SOEDAの健康チェック記録と、そこに農水省で公印を押してもらった書類を成田の動物検疫所にメールで送付したと、彼女は独りで大活躍だったのです。
「それがね、成田の検疫所のアドレスがその用紙にふたつも記載されているのよね、どっちに送っていいものかしばらく悩んじゃったのよ」「わるかったわねー、みーんなおしつけちゃってさ」としきりに恐縮する私でした。「ななえさんは感受性が強い人だから、精神的な感度がよいので、直線的にビーンと感じちゃうんだわねー」と、慰め顔のマダムでした。
私はうふふと笑ってから、「ねえねえ」と、マダムに向かって言います。「それって単純だってことじゃあないの?!」と。「そうねー、そうかもねー!?」マダムが応えて、2人で朝から大笑いでした。ウランだけが『なに笑っているの、わたしのこと??』とこちらをきらきらした瞳で見つめています。
「さあ、今日はいよいよ5番街探索、ルルルッルルルーッて楽しくいきましょう!」とマダムが歌うように言って、1階リビングへの狭い階段をステップを踏む足取りで上がって行きました。そして私たちは豪華な朝ごはんとなりました、今朝のメニューはマダム特性オムレツとハムサラダ、そしてMS. YORANDAが冷蔵庫にたっぷり買っておいてくれたパンです。コーヒーも飲みましたが牛乳も飲みました。
「これでおしゃれをして出発は10時ですよ」と食器類を洗いながらマダムの気合の入った掛け声が飛んできて、私とウランは「はーい!」とあの狭い階段を下りて自分たちの部屋へ、そして出発準備です。
アパートメント・ハウスを出て階段を下りて、いつもならば左に行くのですが、今日は同じ116駅でもBラインに乗るので、右に行きます。大きな通りに出たら左なのですが……。「うーん」と周りをキョロキョロ見渡しているマダムです。Bラインの116駅への階段が見つからないというのです。すでに10時をやや回っての夏の陽射しは暑くて、暑過ぎて、それが容赦もなくかんかーんと私たちを照りつけています。だから時間をかけてのせっかくのお化粧も汗だらけで、すでに半分以上は流れ落ちてしまっています。
横断歩道のところでまごまごしていると、「こちらよ、一緒に行きましょうね」とのように、私の手に重ねられたふっくらとしたやわらかな手がありました。横断歩道を渡りきったところで「OK?」と尋ねてきます。「THANK YOU!」と応えると、サーッとやわらかな風が一瞬吹いたかのようにその手は離れていきました。
「そうねー、ななえさんくらいかなー……」とマダムが教えてくれましたが、黒い手の何か仕事を持っている装いの婦人だったということです。
そして私たちは真夏の暑い空気を身にまとったままで、Bラインの改札への階段を下りて行きました。そして夏は暑いものというかのように、やはり音楽が流れていて、猛烈な暑さの中での駅中ライブがここでも開かれていました。
地下鉄を7番街で降りて、地上にあがります、そしてひたすらロックフェラーの建物目指して、5番街を目指して歩きます、途中でお弁当を売っている屋台が出ていて、すでに時計は12時、お昼を指そうとしていました。そこまでは無駄なエネルギーを使うのはやめましょうというかのように、一言もおしゃべりもしない、とにかく一目散に歩いていた私たちでしたが、小さなショップの前で足を止めました、そこはかわいらしいドッグ・デザインの小物が並んでいるショップだったのです。
「もしかしてメイド イン チャイナかなー?!」とマダム、「チャイナだったらパスね」と私、そんな2人の日本語の会話が通じてはいないのでしょうかお店のお姉さんがにこやかにどうぞと笑顔で迎えてくれています。
「あらー、これすごーくかわいいわ!!」とマダムがひとつのバッグを手に興奮気味に私に声をかけてきます。「このラブのワンちゃんはウランちゃんにそっくりよ、ななえさんこれは買いよ!絶対に買いよ!」と。それは青いバッグで、イエローキャブの窓からニューと顔を出しているラブの絵柄なのです、そのラブがウランそっくりだからとマダムが太鼓判を押して勧めてくれるのです。「そうねー、ウランそっくりじゃあ買いだわねー!」と私ものりのりで興奮全開気味です。
昨日の世界貿易センター跡地であんなに衝撃を受けたことなどすっかり忘れてしまったかのような……、これだから単純だと言われるのだわと内心苦笑しながらも、その興奮が抑えきれない私のおばさん的気持ちでした。ちなみにそのイエローキャブから顔を出しているラブのバッグは、東京での私の日常生活にすっかりなじんでしまっています。いつも持って歩くバッグの中で、バッグ イン バッグとなって、どこに行くのも一緒なのですから。
『そんなバッグよりわたしの方がずーーっとかわいらしいわ』というウランとも一緒に私たちは動き回っています。