ニューヨークの旅 No.12 第3日目・8月11日(木)

世界貿易センター跡地、グラウンド・ゼロに佇んでいると、地の底からわいてくる声、コエ、こえ、あふれるようなその声に包まれて、押しつぶされそうです、どれも苦痛でゆがんだような、叫び狂うような……。とても平常心で聴いている、佇んでいる、そんな状況ではありませんでした。

私たちは逃げるようにその場を立ち去ります。しかしウォールストリート駅へ、そして地下鉄に乗る、何のためらいもなく昨日から今日に続いてきた日常生活の中に戻っていく、そんな気持ちにもなれないのです。それにこの地の底に引っ張り込まれる感覚を無残に振り切って、黙殺してしまったら……、私が私ではなくなってしまうのでは……、そんな不安と恐怖さえ感じました。あの叫び声と永遠に離れてしまう、とりかえしのつかないところに自分が行ってしまうのではという強いためらいもありました。

「少し長く歩きましょうか?」マダムも同じような気持ちだったのでしょうか、私に小さな声で問いかけてきました。

「そうね、そうしましょう」私も小さく応えます。

しばらく歩くけれど、私たちの宿泊地116駅まで乗換をしないで行けるライン、チェンバーズ・ストリート駅まで行って、そこから地下鉄に乗りましょうということになりました。

とぼとぼと歩く、これがその地の底から湧いてくる声と、少なくとも苦しみを共有しているという……。偶然にもこの地に居て、偶然にもあの事故に遭遇したあなたたちが背負わされた十字架よりはるかに、比較にならないほどのものですが、しかし私たちも背中に重い荷を背負ったという心境ですとの思いでした。

いつもはらくちん大好きなウランも、この時ばかりは足を止めることもなくて、いやな顔もしないで、やはりトボトボと歩きます、だから私たちは2人と1頭の色濃い影を地面に残して、その地面を見つめながら無言で歩き続けました。

すっかりおなじみとなりました116駅で道路に出たところでバンドエイドを買うことになりました。出発荷物を作るときに、靴ずれしたらと確かに持ってきたはずなのですが、どこを探してもなかった、ゴムのサンダル靴のバンドの当たるところがスレて、赤くなりはじめています、水膨れができるのは時間の問題でしょうという状態でした。

でもここでまた新しく私には発見がありました。『バンドエイド』は、アメリカの商品だったのです、私はずーっと日本独自のものなのだと思い続けてきましたが……。だから日本と同じパッケージ、私がいつも持ち歩いている箱と同じもの、ただその箱の側面の説明文の文字が違うだけのバンドエイドを買いました。

化粧品もいくつかおみやげに買いました、それをレジに持っていってお金を支払うと、大きなビニール袋にそのままドサッと入れて、手に渡されるのです。無機質で無表情の作業が実にアメリカ的なんだなーと、ボーッとしていた頭がまた切り替わって、現実に戻された気持ちになりました。

アパートメント・ハウスに向かう道、横断歩道を渡った角にメキシコ料理の居酒屋さんがあります、お店の前にもいくつかのテーブルが出て居て、いつでも賑やかなお店でした。

そこを通りかかったらマダムが話しかけてきました。「ねえななえさん、メキシコ料理って、そしてメキシコのお酒って飲んだことある?」と私が「ないわ」と応えると、「じゃあさ、ここに滞在中に1回はこのお店に入ってみない?そうだ明日ここで夕食といきましょうよ!」少しかすれてはいたものの、弾むマダムの声でした。ここで大きく呼吸して、マダムも復活したんだわと私は思ってホッとしました。

アパートメント・ハウスに戻って、やれやれーと汗ではりつく洋服を着替えて、ウランの食事、そしてワンツータイムと済ませて、冷蔵庫のMS.YORANDAが用意してくれたお水をゴクゴクと飲んだら……、それが炭酸入りの水だったのです。するとしばらくして、私の胃袋が固まったような、異物が胃袋に存在し続けているような、違和感がしてきました。胸苦しいというよりも胃袋が重くて動いていないというような感覚です。

「あのさ、ちょっとだけベッドで横になってもいいかしら?」そう言ったとたんに睡魔が押し寄せてきて、私は深い眠りの中に埋没していきました。

「ななえさん、夕食よ!」と、マダムが時々声をかけてくれたのでしょうが、まったく無反応で私は眠り続けていたようです。そしてふっと目覚めたら……、真夜中でした。マダムはベッドの向こう側のはじっこでスヤスヤ眠っています、そしてウランはとグルリと部屋を見渡すと……、今日はクローゼットの方に入る四角の絨毯マットの上でひっくり返って眠っていました。そーっと洗面所に入って、顔を洗って、歯を磨いて、シャワーを浴びて、こういうときは真っ暗な中を何の不便もなく動き回れる、目が見えないことってなんて便利なんでしょうと思って、笑ってしまいました。

8月12日、4日目の朝、いつも以上にすっきりと目覚めた後に聞いたことでは……。ななえさんはどうしちゃったのかなーと心配だったけど、でもよーく眠っていたから、私だけそうめんを茹でてパパーッと食べて、それで夕食おしまいにしたわとのことでした。

「ウランのワンツーはどうしちゃったの?」1番心がかりだったことを尋ねます。「それがさ、眠る前にはやはりさせなければならないとは思ったけど、私でも、あのワンツー袋を使えなくても、大丈夫かなーって心配だったけど……。でもリードをつけて、「今夜はマダムだからね、よろしくよ」と言ったら、なーんてききわけがいいんでしょと思うほど、首にリードをつけたとたんに、スイッチが入ったみたいにささっと庭に出て行って、すっきりとワンを出してくれたのよ!」マダムは感動したわというように声を弾ませて、「だからいっぱいグッドグッドとほめて、頭を撫でてあげたからね」とも言います。そして、ななえさんが眠っちゃうと、ウランちゃんはなんだか元気がなさそうになっちゃったから、遊んでもあげたのよとも、マダムは笑いながら付け加えました。

「えー、遊ぶって?」「この部屋でおにごっこしたのよね、うれしそうに羽跳んでいたわ、盲導犬ウランもあんな様子もするんだわとうれしくなっちゃったわ」「それはさ、ウランがマダムに遊んであげたのよ」「えー、私が遊んでもらったの?!」それから私たちはウランを真ん中にして、大笑いをしたのです。

お母さんの私とマダムの間に挟まれてのウランは、自分のことが話題になっているのでうれしそうに、そしてはずかしそうに、はにかみ笑いでした。

ページの先頭へ
前のページに戻る