『ゴロちゃんのこと』

 昭和29年製作、『24の瞳』という懐かしい映画を見ました、それも音声サービスがついているバージョンのものでです。
私はかつてかつて女優・高峰秀子のフアンでした、その後は吉永小百合、サユリストになって今に至るのですが・・・・・。
この木下恵介監督『24の瞳』は、邦画名画ランキングに常にタイトルが出てくる作品なので、まだ視力のあるころには何回も、何回も見ましたが、失明後は初めて、本当に久しぶりに見たという作品、懐かしさいっぱいのものでした。
今回は音で見て、聞いていて、あるシーンのところで思い出した一人の旧友がいました。
それは高校3年間ずーっとクラスメートだった、そして肝臓の病気で亡くなって10数年過ぎてしまっている、『五郎』、『ゴロちゃん』のことです。
そのゴロちゃんと私が最後に会ったのは、26年ほど前のクラス会でした、彼は目の見えなくなった私の前にドッサリーッと座って朴訥に言いました。
「ななえちゃん、俺肝臓が悪いんだよ、でも女房がお父さん行きたいんでしょ、行っておいでよって言ってくれたからさ」
そして「会えてよかった、ななえちゃんはそれでいいんだよって、俺言いたかったんだ」、そう言った声は、かつてのクラスメートというよりは兄さんのような雰囲気でした。
ゴロちゃんは、「1年生のころ、ななえちゃんは学校を辞めて、再度違う高校の入試を受けようと、悩んでいたでしょう」と、放課後の廊下で偶然に出会って、立ち話を少し交わした時のことから話始めました。
それは私もよく覚えていたので、「そうそう、そんなこともあったわねー」とうなづきました。
そして2年生の国語の授業中、クラス句会の私が提出した《わが道を生きんと思う 桐の花》を、ゴロちゃんは話題にしました。
そして最後に「ななえちゃんはいつでも、場違いの場所にきちゃったなーっておもっているような顔をして、クラスの中にいたよね」と笑いました。
「いいんだよ、ななえちゃんはこれでいいんだよ」と言って、私の手をポンボンとはずむように指先でたたきました。
そして最後に「会えたし、このことが言えて、俺よかったよ」と小さく言いました。
次の日の朝ご飯を囲むテーブルにはゴロちゃんの姿はないようでしたから、目覚めてすぐに東京へ、家族のもとにもどったのだったでしょうか。
それから数年後に、ゴロちゃんが肝癌で亡くなったことが風の便りで私のところにも届きました。
 2020年立春に見た懐かしい映画『24の瞳』は、また違った懐かしさを私に届けてくれました。
天国にも桐の花が咲くのでしょうか。

ページの先頭へ
前のページに戻る