ニューヨークの旅 No.19 第5日目・8月13日(土)

学校時代のクラスメートはやはり良いものだなーと、ニューヨークの街でマダムとMS.TOMOKOの様子を眺めていると……、しみじみそんな思いにとらわれます。今や50代も半ばとなった彼女たちですが、新潟高校で机をならべた中、青春の3年間を一緒に学んだ友達ですが、なんといってもあのころが掛け値なしの10代の青春真っただ中だったんでしょうか。なごり惜しい気持ちは捨てがたく、私たちの後をついて来るかのように母娘で地下鉄の途中まで見送ってくれました。

「さよならー!」「うん、またねー!」

別れのあいさつを繰り返して、私たちは59丁目コロンバスサークル駅への階段を下りました。ところが昨日この駅で地下鉄に乗り換えた時も、この日にこの駅で地下鉄を下車した時も、ただただあわてていて私はまったく気がつかなかったのですが、なんとこのコロンバスサークル駅は階段を下りて改札口に入るまでのコンコースが他の駅に比べて広くて、そこを利用してショッピング街ができているのでした。といっても日本の、特に最近の東京周辺の駅の駅中、駅外のショッピング街とは比べようもないほどベーシックというか、地味なものなのですが……、それでもあまりに珍しかったのでつい足をとめてキョロキョロしてしまいました。

マダムも同じようにキョロキョロとショップを見ていましたが、突然に、「あらー、ここにすてきなバッグがあるわよ!」と言うのです。私が幹太へのニューヨークみやげにバッグを探していることを知っていたマダムが「ななえさん、あのバッグがよさそうよ、ちょっと見てみましょうか?!」と私の腕をひっぱるのです。「そうねー」と言いながらのぞいて見ますと、このお店はビートルズグッズだけを扱っている小さなショップでした。

というのは後で知ったのですが……、そしてマダムも後で気がついたようだったのですが……。このコロンバスサークル駅から北へ行ったところにかつてジョン・レノンとヨーコが暮らしていた『ダコタ・ハウス』があるのでした。ビートルズのファンでなくてもダコタ・ハウスと言ったならば、悲しく驚嘆した、衝撃が世界を駆け巡った日のことを思い出す人たちがきっと多いことでしょう。ジョン・レノンは1980年12月8日の夜外出先からこの高級集合住宅ダコタ・ハウスに戻って来て、ハウスの玄関に入ろうとした時に銃弾に倒れて命を失ったのでした。だからこの周辺はジョン・レノン聖地とされていて、そのための地下道の『ビートルズショップ』だったのです。

そこで私の母心はちょっと張り込んで、『イマジン』がデザインされているバッグを息子へのみやげとして買いました。私はそれほど買い物のセンスが悪い方でもないと自負しているのですが……、この幹太への旅先でのみやげでは、ここ数年スカタン、失敗の連続だったのです。シャツといったらサイズがバカに大きかったり、小さかったり……。ベルトやカバン類も、いざ日本でひろげてみるとあまりに幼稚過ぎて気後れで、黙って他の人に回してしまったりでした。

それで今回は慎重にどうかしらねー……」と手にまず持ってみました。しかしその瞬間、「あらー!これっていいんじゃあないの?!」と「買いだわ!」と直感がピピーッと動いたのです。マダムが「あらー、すてきじゃあないの、なかなかグーだわ!」と言ってくれたこともまた、その財布のひもをゆるめるにはかなりな加速を加えてくれたのですが……。

地下鉄を110丁目、カテドラル・パークウェイ駅で下車、私たちはそこから地上に出ました。次の目的地に行くには、まずここからコロンビア大学近くまで歩きます。

「さあ、これからが踏ん張りどころですよー!」とマダムの声がかかります、そして私にも、ウランにも、その言葉を聞いたとたんに「ピーン」と緊張感が走ります。「えー!踏ん張りどころですって!じゃあこれが最後のがんばりってことなんだわー……」私とウランとがマダムの言葉から読み取ったのはこのことです。

少し石の階段が続いて、そこから丘に上がって行く、また階段が続いてそれから丘への道をたどる、これを何回も何回も、本当に何回も繰り返します。それぞれの通過する丘の広場では何組ものファミリーやグループがバーベキューの支度をしていたり、気の早い人たちはすでに食べ始めていたりしていました。だからあちらこちらにおいしい匂いが広がっている、漂っている、軽快な音楽が流れたり、歌声が聞こえたりの中を、私たちはただただえっちらおっちらと歩き続けるのです。かなりかなりくたびれ果てて「ああー、休憩しましょーう!」と足を何度か止めそうになりながらも、もうひと踏ん張り、もうひと踏ん張りと自分に気合を入れながら歩いて行くと、マダムの歩き方がゆっくりとなってきました。そしてマダムは突然にうれしい声をはりあげました。

「ななえさんすぐそこが目的地だよ!」「やったー!ウランもよーくがんばったねー!」私にも疲労感と快い達成感が押し寄せてきて、思わずばんざーいとハーネスを持たない右手を空に向けてつきあげました。

平らな場所で一息ついてから、建物の横を回って正面玄関に着くと、そこは本当に立派な玄関広場で、何十年も、そして未だに建設が続いているニューヨーク最大の教会、そして今回のニューヨークの旅で是非訪ねたい第3番目の教会、『セント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂』でした。それは小高い山のてっぺんに立って居る大聖堂で、玄関広場から覗き込めばニューヨークの街々が一望に見渡せるのではと眼の見えない私の頭はそのロケーションを即想像します。

私たちはその聖堂に入ってまたまた「ほーっ!」とため息をつきます。とても大きくて、広くてりっぱな聖堂、そこにすばらしいステンドグラスがはめ込まれています。だから色とりどりの光が溢れるように満ちている、それでいながらとても静かな佇まいでした。

「ななえさん、あのステンドグラスのひとつひとつの十字架がそれぞれデザインが微妙に違っていてね、だから差し込む光も微妙に違うのよ。その説明がなかなかうまくできなくてごめんなさい、私もまどろっこしいんだけれど、このすばらしさが伝えられたらねー……」マダムがややせつなさを漂わせて言います。

「大丈夫よ」私はそのマダムの優しさに大きくうなづいて返します。「それは多少事実と違ったり、ズレていたりするかもしれないけれど……、私たち眼の見えない者は頭の中ですぐに想像をふくらませることができるのよ。だからあなたが伝えようとする気持ち、私がそれを受けようとする気持ちさえあれば、私にはその微妙さはわかるからね、まったく眼の見えない人の持っている感覚って、そういうものなのよ」失明して40数年の私は、この眼の見えない世界をマダムに手際よく説明しました。

しばらく私たちはそれぞれ好みの場所、聖堂の中で佇んで、このなんともいえない神秘さに満ち溢れている光を受けながら、その雰囲気をただただ静かに受け止めていました。

「こっちへ行ってみましょう」マダムが私のところに足音を立てないように近づいて、その腕を引っ張ってどんどん前に進んでいきます。そしてキリストの像の正面に立って、しばらくそこに居たかと思うと横を回ってその像の裏側に私を引っ張っていきました。

「いいわよ、ここで居るから、あなただけ行ってらっして」と私が遠慮がちに言ってもマダムは大丈夫よと私の腕を引っ張ってその後ろの空間まで連れていってくれました。そこは普通の観光客は入れない場所なのではと思うほど濃密な空気、重厚な神秘さが漂っていて、私の心も本当にただの空間、私自身がまるで『無』になってしまったかのような気持ちがしました。

「ここはね、聖歌隊が居る場所なのよ、時々この聖堂でニューヨークフィルが演奏するってことなの、きっとここまでそれぞれのパートの演奏者が居るのね」と音楽教師のマダムは感に堪えないようにつぶやきました。

「あのね、事務所でうかがったらさすがニューヨークの教会だわねー、どこでも盲導犬さんとご一緒にどうぞってことだったのよ」とマダムが言います。

「へー、そうだったの?!」私も感に堪えない気持ちになりました。

かつてイタリアを旅行したとき、どこの教会でも「犬はダメ!」と、盲導犬のウランを1歩たりとも中には入れてはくれませんでした。あのバチカンでさえもダメだったのです。激しく抗議をした結果、バチカンの宮殿、宝物展示室には入れてくれましたが、犬には口輪を着けるようにと注意を受けて、私はあわてて日本からもしかして必要かなーと思って持ってきた口輪をウランの鼻先にひっかけました。

ところがひっかけただけだから、ウランが首を振るとすぐに外れてしまうのですが、すると……、警備員が「ピピーッ」と鋭くホイッスルを吹いて注意を与えてくるのです。あわててまた口輪をひっかける、すぐに外れる、すると警告のホイッスルが鋭く鳴らされる、そんな繰り返しでした。

だからこのニューヨークでのウランをなんの躊躇いもなく受け入れてくれた3箇所の教会大聖堂の寛容さには深く感謝の気持ちになりました。

私たちはそんなこんなでこの聖堂に1時間は居たでしょうか、ステンドグラスからの光にやや夕暮れの雰囲気が漂ってきたころに重い腰をあげて帰路につくこととしました。

聖堂の外でマダムがタクシーを拾ってきてくれて、ここからはハーレムのアパートメントハウスまでは、ほんのあっという間もなく着きました。この帰路のタクシーに乗ることはウランにとって、今日1日の中で1番ほっと胸をなでおろして、『やったー!』と思ったことだったでしょう。

”写真019”

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