ダウンタウン駅でラインを変えるために歩いて行きますと、目指すホームの方から歌声が、それもギターを奏でながらのしゃがれた男性の歌声が流れてきました。そのしゃがれ具合がすごーくこのニューヨーク地下鉄ホームに似合っていると思えるのです。だから思わず、「あらー、洒落ているわ!」と私は聞き耳をたてます。「あれはブルースだわ!」と、マダムは「フフフーン」と小さく口づさみます。ここがやはり音楽教師らしくて、実にマダムらしいところなのです。
頭のてっぺんまでジターと暑くて、澱んだ空気がムンムンと体の周りをまとわりつくようで、汗は首筋から顔からタオルハンカチで拭けども、拭けども流れるのですが、しかしこの歌声で気分は一掃、スーッといらだつ気持ちが癒されるものがありました。でもやはり歌っている彼にも夢ばかり追ってはいられない事情が、その日の生活があるのでしょう、演奏する足元に帽子がひっくり返して置いてあります。ここでしばらく足をとめて彼の汗だらけの演奏を、やはり汗だらけになって聴いていたかったのですが……、私たちは11時までに農水省の事務所にたどり着かなければなりません。とにかく書類関係は11時までに入らないと、午前の仕事として受け付けてくれないことがあるからという、DOCTOR・SOEDAの忠告があったのですから。だからやや後ろ髪をひかれる思いはあったものの、通りすがりで聞きながらバイバイしなければなりませんでした。
ところがです、そんな心残りの気持ちをまるで理解していてくれたかのようなプレゼントが用意されていただなんて……、偶然という神様もなかなか粋な計らいをしてくださるものでした。今度乗った電車はよりニューヨーク郊外へ走って行くのでしょうか、前に乗ってきた電車に比べると乗客数が少ないようなのです。そして駅に到着するごとに、その乗客数は減るようでしたが……。いくつかの駅に止まって、かなり電車に揺られたころだったでしょうか、突然車内がなにか騒がしくなってきました、「おー!」とか、「いやー!」とかの声があがります。
「あれー、何かトラブルかしら???」ややこしいことに巻き込まれたら大変と、私の体はすぐに反応しました。とにかくここはニューヨーク、そしてかつては「危ない!」「汚い!」と評判の悪かったニューヨーク地下鉄の電車車内ですから。私は腰を浮かせぎみにして、ウランのリードを引き寄せて左手にハーネスをにぎりました。いざという時には、安全地帯まで逃げなければという気持ちだったのです。
隣に腰をかけていたマダムがそんな私の足をトントンと手でたたいて、大丈夫よのサインを送ってくれています。そしてハーモニーの見事な歌声が車内に流れてきました、それも私たちが腰をかけているすぐ近くからなのです。騒音かしらと思えた「場違いのうわー」という音は、そして奇声に思えた音は、この若者たちの即興の発生練習、音合わせだったのです。4人の若者たちがアカペラコーラスをプレゼントしてくれているのです、それも思いがけなく私たちに向けてです。
気持ちを高揚させて、「まあー、なーんて素敵!!!」と、そのハーモニーにうっとりしていますと、突然電車は徐行運転となって、ホームに到着したのでしょう、走りが止まりました、その瞬間黒い4人の若者たちの歌声も止まって、私たちが拍手する間もなく彼らは風のように体を翻してホームの人となって去って行きました。駅から駅までのたった1曲の歌声、でも本当に素敵でした。私は大感激、とても大きな国、アメリカの『おもてなしの心』をもらった気持ちがしました。
フォレスト・ヒルズ駅でその電車を降りて地上に出ました。ニューヨークの地下鉄はこの5連泊中にいくつかのレーンに乗りましたが、どれも1階分程の階段を下りて行くのです。東京のように地下深くに地下鉄が通っているようなことはなさそうです。だからエスカレーターもなくて、車いすの人たちのためにエレベーターはあるということですが、普通に私たちが目に留まる場所にはそれはありませんでした。そして駅員さんの姿を見ることもなくて、階段の乗り降りするところにも、改札口の周りにも、ホームにも、点字ブロックはほとんど見当たりません、というか私の足に触れるものはほとんどなかったようなのです。
フォレスト・ヒルズの駅前に立ちますと、DOCTORが教えてくれた通りにとても落ち着いた、ニューヨーク郊外の町といった空気が漂っていました。
ここから農水省事務所まではタクシーでということなのです。今度は同じタクシーでも飛行場から乗ったイエローキャブではなくて、グリンキャブです。市街地内と市街地外とでタクシーの色がニューヨークは違うのだそうです、そして料金の設定も違うんだということです。
今度乗ったグリーンキャブの運転手は、どうもアジアの人のようです、「もしかするとパキスタンあたりの人かもしれない」とマダムが小声で言います。こんな時も日本語が相手にわからなくてもマダムは気をつかって小さな声でささやくように私に伝えるのです。やはりここがマダムだなーと私は15歳年少の友達に教えられる思いがしました。
とにかく農水省の住所を伝えて、なんとか11時までに着いてもらわなければなりませんが、しかしみるからにこの実直そうなというよりは頑固そうなグリーンキャブの彼には、マダムの英語がうまく伝わらないようなのです、そして運転手の英語もなかなかマダムには理解できない様子でした。ややとんちんかんなやりとりがあって、お互いになんとか会話が通じ合い、納得したのでしょうか、車は動きはじめました。
ところが途中で運転手に車内電話がかかってきました、年配の女性のぶっきらぼうな声が私たちにも聞こえるように車内に流れます。こちらの車内電話は運転中に受話器を手で持つのではなくて、車内に普通に流れて、お客にかまわずに会話をしているのです。というか、私たちにはその会話の中身がわからないからという安心感があるから、運転手は聞こえないようにという配慮をしないのかもしれません。先日の飛行場から乗ったイエローキャブの車中でもこのような電話があったのですが、そしてやはり年配の女の人の声が流れてきたのですが、実に楽しそうにあの時の運転手は会話をしていました。
しかし今回の電話の中身は深刻な話題でしょうか、運転手の声は実にぶっちょうづらですが、相手の女性の声も、それに負けないほどの無愛想な話し方です、そしてなにより笑い声などもまったくないのです。タクシーに乗っているだけの暇な私はその会話を耳にしながら、なんとはなく想像します。「ははーん、これは彼の女房殿からのお小言電話なんだなー……」と。
「あんた今日、仕事に出かけるときにゴミ捨てていかなかったでしょ」「うーん、そうだったかなー!?」「そうよ、だからひどいことになっているわよ!ノラネコが寄ってたかっての大変な状態よ!」「うーん、そうかー!」「そうよ、でもまさかその後始末をこの私にやれなんて言わないわよね?」「そうだなー……、じゃあ言わないようにしよう」「あたりまえでしょう、そのままにしておくからさ、あんた帰ってきてからちゃーんと片付けをしてよね、それでないと近所がうるさいんだからね!」
こんな場面を空想してみたのですが……、はたしてどうだったでしょうか?!?。後からこの空想劇をマダムに話すと、実にあきれたーという顔で言うのです。「ななえさんはのん気でいいわよ、私はこの運転手に自分の英語がちゃーんと伝わっているのか、はたして農水省に11時までに着けるかどうか、心配でたまらなかったわー!」と、言葉が通じないということはとても不安で不便、でも会話が通じる相棒がいてくれるおかげさまで、私などは気楽な気分でも居られるのです。
どうにかこうにか私たちは11時にならないうちに、目指す農水省の建物に着いたようです。「ここだよ、あれがその建物さ」とグリーンキャブの運転手が指さしておしえてくれます。その事務所に歩きながら、マダムは時々不安そうに振り返って言います。「あの運転手のおっちゃん、ちゃーんと待っていてくれるかしら?!?!」「あのおっちゃんにお金渡したの?」と私。「そう、ちゃっかりしているのよねー、チップの他に少し余計にお金を置いていってとあのおっちゃん、にこりともしないで言うのよ、その通りここまでの料金とプラスを払って、だから絶対にここで待っていてよって頼んだんだけど……」いつの間にかこのグリーンキャブの運転手はマダムと私との間では『おっちゃん』になってしまいました。
私たちが訪ねた農水省は出先機関なのでしょう、小さな事務所でした。そしてそこに訪れている人たちは何が用件なのか、海外から来て、ここに住んでいる人たちといった様子で、誰もが寡黙で、暑さにぐったり、生活にぐったりといった様子です。赤ちゃん連れの若い夫婦が居るのでしょうか、まだ子猫みたいな幼児の泣き声がそのだらけた空気を引っ掻き回すような苛立ちで響いていました。
そしてウランの書類に公印が押されて、カウンターのところに戻ってきました。なんとかお昼前には間に合いました。念には念をのマダムは、カウンターに書類を広げて、係り員の女性と確認し合っています。そして「THANK YOU!」と言葉を残して、私とウランの待っているところに小走りでやってきました。
「ななえさん、これでOKよ、多分完璧だと思うわ、ホテルで成田の動物検疫所に書類をメールで送ってみるけどね」マダムはホッとした様子で、やれやれと私の隣の椅子に腰かけました。今回の書類に関する手数料金は、ウランがサービスドッグだからで、まったくの無料でした。これは珍しいことでした、今まで訪ねた国、イタリアでも、ウィーンでも、ブラジルでも、スイスでも、昨年のカナダでも、公印を出したということでの手数料金は支払ってきたのですが……、ここがやはりアメリカのアメリカらしさだったでしょうか。そしてマダムは言うのです。「あの運転手のおっちゃんがちゃーんと待っていてくれるかどうかが……、これが問題だわねー・・・」と。この事務所の周りは本当に郊外も郊外、はたしてここでタクシーを止めるだなんてできるだろうかといった雰囲気なのです。
私たちは農水省の玄関ドアから出て、歩道でぐるりと見渡します。
「いた、いた、いてくれたわ!」マダムはうれしそうに手を振って、「ここよ!」とサインを送っているのですが、グリーンキャブは動く気配もありません。だから小走りに私たちは、それでもホッと胸をなでおろしながら車にかけ寄って行きます。
「待たせてごめんなさいね」と英語でマダム、しかしグリンキャブの運転手のおっちゃんはにこりともしないで、今度はどこに走ればいいのかと問うかのように振り返って私たちを見ています。
おっちゃんとマダムとの間で会話が繰り返されて、それもなかなか通じない雰囲気で繰り返されて、やっと「OK?」「YES」となんとかわかりあえたのでしょうか、車は走り出しました。