私の本ばこ

「もうどう犬リーとわんぱく犬サン」


PHP研究所 著:郡司ななえ 絵:城井文
初版 2012年3月


「ベルナのしっぽ~盲導犬とななえさん」


角川つばさ文庫 絵:影山直美
初版 2009年3月


「犬たちがくれた「ありがとう」盲導犬ベルナの仲間たち」


角川書店
初版 2008年2月


「ベルナのしっぽ」


角川書店
初版 2002年3月
ある日、私の東砂の仕事場の電話がリリーンとベルを鳴らしました。角川書店の編集部からでした。
「『ベルナのしっぽ』を文庫にする気持ちはありませんか?」。この電話での突然の問い合わせは、最初私を驚かせました。そしてとまどっている私の気持ちの中に、しばらくしてから大きな喜びがわいてきました。
『ベルナのしっぽ』は私が1番最初に書いた著作物です。出版されてすでに6年あまりが過ぎました。この間、たくさんの人たちに読んでいただきました。そしてテレビドラマにもなった本です。
「ベルナ大好き」。そんなふうに言ってくださるみなさんに応援していただき、たくさんの人たちと心の和を作る事が出来ました。
そして私の夢は、もっともっとと大きくふくらんでゆくのです。たくさんの若者たちの心に、この本を届けたい。それが私の夢です。本があまり好きではない若者。何をしてもうまくゆかないで落ち込んでいる若者。心のどこかに欝積するものを抱いている若者。そういう人たちの心にこの本を届けたい。常にそう思い、願い続けてきたのです。文庫になれば・・・。一気に私の心に抱き続けてきた夢は拡がってゆきました。
カバーのベルナを、きたやまようこさんが愛らしく描いてくださいました。春風に乗ってフワリフワリとまだ初々しさを持ち続けている人たちの心に飛んでいってね。私はそういう思いいっぱいの気持ちで、この本を送り出したのです。


「ガーランドのなみだ」


角川書店
初版 2004年6月
角川書店の担当編集者のWさんがまだ書店に並ぶ前の『ガーランドのなみだ』の著者謙本分を持って、私の仕事場に訪ねてきてくれたのは、梅雨の晴れ間の1日でした。きたやまようこさんのデザインで、落ち着いたピンクの中に「わたしをおともだちにしてね」と言っているようなガーランドがいます。「ガーちゃんおかえりなさい、やっとお母さんのところにもどってきてくれたのね」そういう気持いっぱいで、お母さんの私はこの本を抱きしめてやります。
平成11年、まったく別の出版社から『ガーランドの瞳』というタイトルで、1度出版されたガーランドの本でしたが、著者の私とその出版社とのさまざまな関係があって、まったく見捨てられ状態に陥ってしまった『ガーランドの瞳』でした。ある時期から書店の棚に並べられることさえもないままに、ここ数年は出版社の倉庫で眠り続けていました。『ベルナのしっぽ』が文庫本になって、その後また別の出版社から単行本にもなって、たくさんのみなさんにお読みいただいているのに・・・。それに比べて、「ガーちゃんは本当に・・・どうにかならないものなのかしらね」とぼやきながらも、どうすることもできないでいるはがゆい著者の気持でした。
しかし1番問題だった契約期間が、今年の5月に切れることになって、これで晴れてガーランドの本は自由に企画を立てられることになったのです。「さあガーちゃんもね、たくさんのみなさんに読んでいただけるようにがんばろうね」。そう言葉をかければ、あの目立ちたがり屋さんでいじっぱりなガーランドが、黒々とくまどりをした瞳をパッチリあけて、うれしそうに私を見つめています。
今回角川書店で文庫化するにあたって、タイトルも変更するとともに、かなりな加筆をすることにしました。今年に入って2月から3月へと、春の息吹が聞こえてき始めたころ、私はその加筆のために、3歳2ヶ月でなくなってしまったガーランドの思い出にひたる毎日を過ごしました。原稿を書こうとワープロに向かいながら、ついついあんなこともこんなこともとひとつひとつのエピソードが広がってゆき、手をつけられないで1日が終わってしまうということもありました。たった1年2ヶ月しか一緒に暮らせなかったガーランドとの日々でしたが、ひとつひとつのエピソードは濃く、そしてとても印象的なものばかりです。「まあまあ、なんてガーちゃんは・・・」思わずつぶやいてしまうほど、短かった日々の中にたくさんの思い出を残していってくれました。
ベルナが亡くなり、夫の幸治さんが亡くなり、そしてガーランドと出合った平成6年の夏も、この夏と同じくらいに猛暑の日々でした。そしてそれ以上に暑い我が家の親子の生活だったのです。今思い出せば微笑が思わず口元に浮かんでくるのですが・・・あのころはただただ無我夢中のお母さんの私の奮闘の日々でもあったのです。小学6年生の幹太と妹になりたてのガーランドがとにかく狭いアパートの我が家の中でケンカばかりしているのです。くる日も、くる日も、ドタバタドタバタの連続、ふたりを叱るお母さんの私はヒステリーがおきそうでした。
そして次の年、平成7年の夏は、私達がガーランドと過ごした最後の季節になってしまいました。中学1年生の幹太と、私とガーランドは、たくさんの仲間と一緒に奥多摩にキャンプにゆきました。キャンプファイアーの炎をじーっと見つめていたガーランドの姿がとても印象的でした。
そのキャンプから帰ってまだ荷物もそのままの状態で、様子のおかしいガーランドを病院へ連れてゆき、そしてそこでガーランドの体に白血病が襲い掛かっていることを知ったのです。3歳2ヶ月の若い体に襲い掛かる白血病の勢いは本当に目を覆いたくなるほどにすさまじいものがありました。ただただ病み衰えていくその体を抱きしめて、眠れない夜を過ごした私と幹太と、そしてガーランドの日々でした。
夏が過ぎてゆくとともに、ガーランドも私の胸の中で命を閉じて天国へかけ上がってゆきました。白血病と闘い続けたあの1週間の日々が、つらかったけれど私たちに、親子の心の通い合いを、家族の大切さを、教えてくれたのだと今ではしみじみ思います。
「宝物さがしがだーいすきだったガーちゃん、天国でも毎日やっているの?」。そんなことをささやけば、ちょっぴり恥ずかしそうに、そしてちょっぴりうれしそうに、ガーランドがあのしなやかな体を私に摺り寄せてあまえてくるような気持がします。「さあ、ガーちゃん。たくさんのみなさんの心に飛んでゆくんだよ」。短い命を精一杯生きたガーランドのけなげさが、若い命をとじなければならなかったガーランドのせつなさが、行間に漂っているこの本がみなさんのお心に受け止めていただけたら・・・。そして女優ジュディー・ガーランドからその名前を拝借したという美犬で、目立ちたがり屋さんのガーランドに少しでもスポットがあてられることになれば・・・お母さんの私の気持ちとしてはとてもうれしいのですが。


「見えなくても・・・私 盲導犬とともに歩んで」


角川書店
初版 2005年6月
50代になって物書きを生業にするような生活に入った私には、わが子ともいえる数冊の本の著作物があります。その中にはたくさんの人たちに読んでいただけた幸せな1冊がありますが、それに反してどうしたわけなのか読者をえられずに不遇をかこっている不幸な1冊もあります。数年前出版されました「私らしく生きたい」もいうなればそんな不遇な1冊でした。
17歳でベーチェット病を発病、27歳で中途失明した私でしたが、その日々をどんな気持ちで過ごし、そして目の見えない現実を自分の人生の中にどう受け入れて、生活してきたかを、日々のエピソードの中に折り込み、そして描き上げていった1冊の本で、これは既に13年間続けています「お話の会」でのBバージョンの内容でもあります。
書き手の私自身の人生を描くわけですから、時には現実を突き放して、客観的に観察する視線を必要とします。また時にはかつての思い出の中により深く没入してその時の自分の心理状況を観察しなければならないこともあります。思い出に浸りながら書き進めてゆくというような楽しいこともありましたが、時には身を削られるようなつらさも味合わなければなりません。それもこれもの感情をコントロールしながら、かなりなファイトで書いたのですが・ ・・。
しかしその結果、思うような読者のみなさんからの反応を得られずに沈静化してしまったという1冊の本になってしまいました。再度この原稿に息を吹きいれて、もう一度の新たなる展開を図りたいと、それも若い読者の皆さんの心に届く1冊の本になって欲しいという願いが私にはありました。
今回、角川書店の編集者Wさんから、この本の文庫化の企画提案をいただいた時、若い読者向きに書き直すことを条件にお引き受けさせていただくことにしました。書き出しも夫となった郡司幸治さんと初めて出会った「目の見えない者のお見合いシーン」からの書き出しということを、私の方から提案するというように、全ての内容を一度解体、組みなおしという手順で原稿書きを押し勧めてゆきました。
後半はペリラとのまったく新しいエピソードを書き入れて、かつての「私らしく生きたい」という1冊の本と似て否なる1冊の本にしました。タイトルも「私らしく生きたい」からもう一歩自分という本質に入り込んだ「見えなくても・・・私」というものとして、若者の心にという願いを込めて再度のファイトで送り出しました。
自分を大切に生きる人はもう1人の自分である、他人をも大切に生きると信じている私です。私が私であるために、その私の現実を受け入れなければなりません。そんな思いをこめて、郡司ななえが送り出した1冊の本です。


「そしてベルナは星になった」


角川書店
初版 2006年8月
2006年9月渋谷シネアミューズでの上映をスタートとして、全国各地の映画館上映に向けて、映画「ベルナのしっぽ」は大きく、そして高くはばたいてゆくことになりました。
「たくさんの子供たちに映像化したベルナワールドを見せたい、そして生きるってすてきなこと、すばらしいことという実感を、誰もが一緒に生きてゆける社会を私たちの手で作り上げてゆけるような人間関係を結び合おうよという気持ちを実感しましょう」という気持ちで、ほぼ9年間、ペリラと一緒に夢の旗を掲げて歩んできました。
人生はたくさんの苦しみとほんのちょっぴりの喜び、たくさんの悲しみとほんのちょっぴりの幸せ、そしてたくさんの耐えなければならないこととほんのちょっぴりの満足感、でもその握りしめた満足感がほんの少しであればこそ、人は達成感を味わい、大きな幸福感に包まれるのではないのかしら…、やっとゴールにたどり着こうとしている私の実感です。
「長く本当にいろいろあったけれど、ペリちゃんには心からの感謝だよ、ありがとう」と言えば、2006年8月17日で12歳になったペリラは「お母さんと一緒だったから、楽しかったよ」とけなげに応えてくれます。
26年間しっぽのある娘たちと生活をともにしてきた私に「盲導犬と一緒に暮らすってどういうことでしょうか?」とたずねる人がいます。
「そうですねー…」と応えながら、実はその後に続ける言葉が見つからない私の気持ちなのです。といいますのは、私にとってすでにベルナも、ガーランドも、そしてペリラも盲導犬という存在ではなくて、息子幹太と同じようにわが子なのですから。そして彼女たちとの日々は、日常生活のひとつひとつがそれだけでポエム、詩情あふれるワールドなのです。
この「そしてベルナは星になった」ではベルナとのほぼ13年の日常を五七五七七という短い言葉で、水彩画風に淡い絵の具でスケッチブックに描いた、私の唯一の短歌エッセー集です。このひとつひとつの作品はわが息子幹太を育ててゆく目の見えないお母さんである私の子育て日記でもありました。
今回文庫になりましたこの1冊の本「そしてベルナは星になった」が、より多くの若者の心に、悲しみをかみしめている人たちの心に、とんでいってくれますことを祈っています。
あとがきに未発表の作品ですが、2頭目の盲導犬、2番目の娘ガーランドが亡くなった直後に読みました彼女への挽歌を記載しました。


「ベルナとガーランド」


角川書店 画:克本かさね
初版 2004年12月


「そしてベルナは星になった」


ナナ・コーポレート・コミュニケーション
初版 2002年12月
ベルナと暮らしている日々、私は毎日家にいるお母さんでした。そしてそれは幹太を育てる日々でもありました。目の見えないお母さんは子育てのスナップ写真を撮ることはできません。それに代わる、わが子の成長の記録を、ちょっとした時間に書けないかしら・・・。そう思ったのが短歌を作り始めたきっかけでした。
指を折りながら、言葉をつなぎ合わせてゆく。最初はまったくへたくそな短歌ばかりでした。
胸深く 第九の余韻 とどめおき
坂多き道を 盲導犬と帰る
この作品が朝日新聞の『朝日歌壇』に初めて取り上げられた時は喜びより驚ました。とまどいながらも、それでも大きな励みになりました。
この歌を今、自分の胸の中に読み上げてみますと、あの日の我家の風景が、なつかしさとともに鮮明によみがえってきます。
「ボクもいくんだー」私とベルナが出かけようとすると、後を追いかけて泣いていた幼かった幹太の泣き声が。「幹太はパパとお留守番だ。後で公園に遊びに行こう」泣きじゃくる幹太をなだめていた夫の幸治さんの声が。「泣いているよ、どうしよう」そんなふうに私を見上げているベルナのその時の様子が。実際には歌には読み込まれていない、その時のさまざまな出来事が。そしてひとつひとつの自分が作っていった作品から広がる、さまざまな生活が、私の胸に一気にかけめぐってきます。
ベルナと過ごした13年の日々は、私の一番目の著書「ベルナのしっぽ」ですでに書きました。そしてたくさんのみなさまのお心に受け止めていただきました日々でしたが、今度は短歌のひとつひとつから拡がるベルナとの日々をみなさまにお届けしたいという気持ちで書いてみました。再度、人間と犬との生活の中で巻き起こるさまざまなドラマを。そして心通わせ合って生きることの喜びを。あるいは悲しみを、読者のみなさまと共有できればという思いです。
この本には掲載しませんでしたが私の好きな作品にこのようなものがあります。
虹たつと いうを 背中に聞きながら
盲導犬と 空あおぎ見る
そしてベルナが亡くなった3ヶ月後、平成6年6月に夫の幸治さんが肺ガンで亡くなってしまいました。その時、私が読みました夫への挽歌はこのような作品でした。
はにかみつつ 愛をつげくれし 唇よ
とわの 別れの くちづけをせむ


「ベルナのしっぽ」


ナナ・コーポレート・コミュニケーション
初版 2003年5月
さまざまな理由で平成14年3月、にイースト・プレス版の『ベルナのしっぽ』は絶版になりました。すぐに角川書店から文庫版として出版されましたが、単行本の『ベルナのしっぽ』は、ほぼ1年の間ないままで日々を重ねました。
そして平成15年5月、さわやかな風にのって『ベルナのしっぽ』は、またあらたに生まれかわりました。これは私が最初の盲導犬ベルナと過ごした日々をつづったものですから、決してストーリー変更などということはできません。しかし、たくさんのベルナ大好きなみなさんに何とか満足して、この新たな生まれ変わりの本を受け止めていただきたいと願いました。そこでいくつかの新たなエピソードを加筆することにしました。あとがきには、今までどこにも書かなかったベルナとパピーさんとの再会の思い出を綴ってみました。
東京に梅の花が咲き、そして桜の花のつぼみがほころび始めた頃、私はこのエピソードの原稿書きをしておりました。ちょうどベルナが亡くなって9年目の春がめぐってこようとしている頃のことでした。やさしくてやわらかな思い出に包まれての日々をワープロに向かいながら過ごさせていただきました。この1冊にベルナとの思い出のすべてを書き尽くしたという気持ちです。
みなさまのお心に、このような形で生まれ変わったベルナが受け入れていただけたら。それが著者の私の願いです。


「ガーランドのなみだ」


ナナ・コーポレート・コミュニケーション
初版 2006年9月


「リタイア 盲導犬の老いを見つめて」


ハート出版
初版 2005年7月
目が見えなくなってほぼ33年、盲導犬と生活するようになって4半世紀になる私ですが、生きるということは本当にさまざまな試練に見舞われるものです。そして人間とはかくも愚かしく、そしてかくも弱いものなのかを痛感させられ、その生々しい生き様を目の当たりに見せ付けられて驚嘆し、嫌悪させられた私の平成16年の春、4月でした。そんな中で私が本当に虚をつかれるような思いを味わったのは盲導犬のペリラの私への思いでした。
かつて最初の盲導犬ベルナと戦友のように社会の荒波を超えての日々を過ごしてきましたが、しかし今回の耐えなければならなかった荒波はそんな単純なものではありませんでした。私の人間としての尊厳さえも脅かすようなおぞましさがありました。おろおろと無作為に逃げ惑い、ある時には激しく打ちのめされての日々、防戦に努める私の傍らにはいつでもけなげに見守ってくれているペリラがいました。そのペリラの心に触れるたびに「ああ、私たちはともに生きているのだ」と実感して、その心に支えられた私でした。
そんな中本来ならインタビューの終わっていたこの企画の原稿を書き上げなければならなかった平成16年だったのですが、とてもそんな精神状態でもなくて、仕事はまったく手につかないという数ヶ月でした。全てのトラブルが一応解決、私とペリラの日々にまた穏やかさがもどってきたのは平成16年もすでに秋の気配が深まったころのことでした。そこからです、再度この本の企画を頭の中で練り直して再構築、そして万を辞しての精神のウォーミングアップを図り、平成17年1月2日よりワープロに向かい始めました。正月休みはもちろん返上、寒い冬が去ってゆき、春の桜の季節も通り過ぎて、ゴールデンウィークの喧騒の中を、まだ原稿の手直しに没頭している日々でした。
誰もがいずれ自分の生を閉じて死に向かって旅立ってゆきます。だから私たちの日々は、いずれ訪れるであろう死への直線ロードでもあるわけです。しかしだからこそ今日1日を精いっぱい生きて、自分の未来へと繋げてゆく必要があるわけです。
終わりを見つめて今を生きる、今を生きることによって未来を開いてゆく、それはこの宇宙に生存する全ての生物にいえることなのだと、今回の原稿を書き進めながら心いっぱいの気持ちで私は受け止めました。
久々に私の書き下ろし新作の1冊の本ですが、充分に自分の気持を注ぎこめたと満足できる1冊でもあります。たくさんの読者のみなさんのお気持ちに沿ってくれる本になって欲しいと、ただただその願いを込めて60歳になったばかりの郡司ななえが熱い心で世の中に送り出しました。


「ベルナのおねえさんきねんび」


ハート出版 画:日高康志
初版 2002年9月
この絵本シリーズについては、平成14年春のころから本格的な準備作業が始まりました。シリーズNo.1『ベルナのおねえさんきねんび』はその年の6月に出版され、そして今回のシリーズNo.5『ベルナと みっつの さようなら』は、今年の6月出版ですから・・・この間ほぼ2年の月日が流れたことになります。
『ベルナのおねえさんきねんび』、『ベルナもほいくえんにいくよ!』、『ベルナとなみだのホットケーキ』、『ボクがベルナのめになるよ!』、そして今回の最終刊『ベルナとみっつのさようなら』の5冊の本のページを開けば、どの本の、どのページにも、ベルナのあのやさしさと、たれ目の視線を感じることができて、私の心を暖かなものにしてくれます。
しかし2年にもわたるシリーズですから、この間には、私自身にも、そして私の周辺にも、さまざまに刻みこまれた時間の流れがありました。『ボクがベルナのめになるよ!』の原稿最終チェックは、北海道に飛ぶ飛行機の中でした。はるかはるか空の上を飛びながら編集者Kさんと隣り合う座席に腰をかけての打ち合わせだったのです。これが1番印象的で楽しい思い出の作業だったでしょうか。
ただそんな楽しい事ばかりではなかったことはもちろんです。今回の最終刊の原稿に取り掛かろうとしている私は、突然勃発した人間関係の泥沼のトラブル真っ最中の只中にいました。頭の中はパニックをおこしそうですが、心は集中力を集めて、ベルナとの最後の日々を絵本のための原稿としてまとめなければなりません。苦しくて、歯をくいしばらなくてはならない日々でしたが、でも物書きとしての私のプライドがとにかくその日々を支えました。どんなことがあろうとも待っていてくださる読者のみなさんのご期待を裏切ることはできない、そして出版社には迷惑をかけられないのだ。この著者の私の思いだけで、自分の気持をかきたてて、波間に漂うような自分の心を励ましながら、最後までワープロのキーをたたき続けたのです。そんな私を、「よくやった、えらかったよ」と、自分自身をほめてやりたい気持です。
5冊の本は、それぞれ1冊1冊にその原稿を書いていたおりおりの日々を思い出させてくれます。自分のために書き綴っていた点字の「原稿構想ノート」を開くと、つらかった日々も今は全てなつかしさに変わっているから不思議です。きっとこれもベルナの優しさから伝わってくる不思議な力なのだと思います。
そして長い期間心を集中させて、シリーズを滞りなく刊行させてくれたのには、もうひとつ大切な心がありました。それは最後まで傍らで励まし続けてくださった担当編集者Kさんの存在があればこそと、心より感謝の気持いっぱいであることを最後に書き記させていただきます。


「ベルナもほいくえんにいくよ!」


ハート出版 画:日高康志
初版 2002年12月


「ベルナとなみだのホットケーキ」


ハート出版 画:日高康志
初版 2003年6月


「ボクがベルナのめになるよ!」


ハート出版 画:日高康志
初版 2003年12月


「ベルナとみっつのさようなら」


ハート出版 画:日高康志
初版 2004年6月


「こんにちは!盲導犬ベルナ」


ハート出版
初版 1999年3月
「『ベルナのしっぽ』以上のベルナを書く事は出来ません」。いろいろな出版社の人に事あるごとに、私はこう言い続けてきました。そして私自身も本心そう考えていたのですが。でもお話の会で小学校低学年のお母さんたちに、たびたびこんな事を言われるのです。「小学生でも読めるように、ベルナの児童書があったらいいのにと思うのですが・・・」。それで一大決心をしてワープロに向かい出したのです。ただ私が1番心がけたのは小学生のみなさんによくわかってもらえるようなベルナとのかわいいエピソードをという事でした。


「がんばれ!盲導犬ベルナ」


ハート出版
初版 1999年12月


「さようなら!盲導犬ベルナ」


ハート出版
初版 2000年7月


「ベルナの目はななえさんの目」


童心社 画:織茂恭子
初版 1996年7月
ベルナの事を絵本にしたい。それはまだベルナと一緒に暮らして、幼稚園で『ベルナのお話の会』を開いていた頃から私が抱いていた夢でした。
でも盲導犬と暮らしている普通の主婦のそんな願いがどれほどの物であるのか、私には自信がありませんでした。何も知らないずぶの素人のおそろしさです。この気持ちを絵本作家の田畑精一先生にお尋ねしてみようと考えたのです。
先生の原画展がある事を聞きつけて、ベルナと出かけて行きました。「大丈夫、立派に絵本として通用する良いテーマですよ」。田畑先生の静かなお声。本当にぽーっとしてしまいました。いただいたお言葉もとてもうれしかったけれど、それよりなにより先生のあまりのすてきさ。私の心は幸福感でいっぱいでした。


「ペリラの手紙」


朝日ソノラマ 写真:廣瀬一美
初版 2000年1月
「盲導犬っておりこうなのですね」。ペリラと出かけると見知らない人によくこんなふうに話かけられます。「盲導犬っていつでもこんなにおりこうさんで、ストレスがたまらないのかしら」「あまりに管理されすぎていて、自由がなくてかわいそうね」。こんなふうに話かけられる事もあります。
私は盲導犬がハーネスを着けて活躍している場面だけでなく、家族の一員としての姿もみなさんに知ってもらいたいと考えました。ペリラは盲導犬としてハーネスをつけている時にはこんなにおりこうさんなのですが、でも家の中ではこんな家庭人(?)としての生活もあるのですよ。この1冊の本には、こういうメッセージをこめました。
この原稿を書きながら私はペリラの気持ちをいろいろ想像してみました。時々苦笑してしまったり、思わず吹き出したり。うんうんわかるわかるとばかりに、うなずいたり、そうだったんだと納得したりでした。そして時にはほろりと泣けてしまう事もありました。涙を流している私に、「おかあさんわかってくれたのね」とばかりに、すり寄ってあまえるペリラでした。


「盲導犬ベルナ物語」


朝日ソノラマ 画:ふじたかずひろ
初版 2001年5月20日
ある小学校でのお話の会でした。漫画家のふじたさんがお父さんとして、その会に参加していたのです。その後、ふじたさんの方から「この物語をまんがにしてみたいのですが」と言うお話をいただきました。え、まんがですか・・・。私は最初なかなかまんがという事になじみませんでした。でも、ふじたさんにお目にかかって、そのお人柄のすてきさにこの人ならと思いました。このようにみなさんにお届け出来たのは、ただただ漫画家・ふじたかずひろさんの情熱のたまものの1冊の本なのです
~まんが家「ふじたかずひろ」さんからのメッセージ~
勇気や希望は自分の心の中に現実の苦悩を乗り越えて行く力は目には見えない心の中にあることを教えてくれた『ベルナのしっぽ』・・・。まんがが、ベルナとの出会いの一助になれれば望外の幸せです。


「私らしく生きたい」


アールズ出版
初版 2002年4月
アールズ出版の森社長は、かつて『ベルナのしっぽ』を出版したイースト・プレス社の編集部長でした。その森さんがイースト・プレス社を辞める時、唯一反対したのが2人の娘さんだったと聞きました。その理由は「『ベルナのしっぽ』を出している会社を、お父さんが辞めるだなんて」という事だったそうです。その話を聞いた時、新しく船出したアールズ出版のはなむけに何か書いてさしあげたいと強く思った私でした。しかし「それでは郡司さん自身の事を是非書いてください」正式にそう言う要請を受けたのですが、その時はとてもお引き受け出来る状態ではありませんでした。とにかく毎月時間のやりくりをしながら、母のいる京都の老人サナトリュームにペリラと訪ねて行く。それだけで精いっぱいの毎日だったのです。
平成12年10月、88歳の誕生日を目の前にして母が亡くなりました。私たち姉弟に囲まれての母の死でしたが、ひとつの時代の終わりを私の心に強く意識させました。
そしてその母の死から2ヶ月後の平成13年1月、気合いを入れてワーブロに向かったのですが、それからの日々が本当に大変でした。過ごしてきた日々を振り返れば溢れる思いがあるのです。それを整理するための作業がとにかく難しかったのです。何回も、何回も、心のフィルターにかけたのですが。その作業が懐かしくもつらくて、手間取ってしまったのです。
平成13年の春がきて、暑かった夏の間もずーっとワープロに向かっていました。秋も冬もとにかくお話の会で仕事場を留守にする日以外は、やはりワープロに向かい続けたのです。そうして1年2ヶ月取り組み、悪戦苦闘の日々でした。全部書き上げた時、心からほっとしました。それと同時に心から疲れたーと思いました。しばらくポーット床にねころんでペリラと遊び惚けてしまいました。


「ベルナのしっぽ」


イースト・プレス
初版 1996年6月(絶版)
平成6年という年は私にとってとうてい忘れる事の出来ない1年でした。この本の後に出版しました『ガーランドの瞳』を読んでいただければ、その頃の我が家の事情はみなさんによくわかっていただけると思うのですが、人生こんな事が再び起きるだろうかと思えるほどに、すさまじくいろいろな出来事が次々に起きる日々でした。
13年間一緒に暮らした盲導犬のベルナが3月に亡くなりました。それから3ヶ月後、6月に夫幸治さんが癌で亡くなりました。そして7月、小学6年生の幹太が夏休みに入ってすぐに2頭目の盲導犬ガーランドが我が家にやって来たのです。
最初のしっぽのある娘そして夫の「死」という大きな悲しい別れがたて続けて2つもあり、そして2番目の娘との出会いという大きな喜びがあったのです。
その年の9月から私は夫の残していった「東洋堂」を引継ぎ、働くお母さんになったのです。家の中では小学6年の幹太がお兄さん、そしてガーランドが妹として、3人家族の暮らしが始まったのです。ところが三者三様の思いがあって、なかなかうまくゆかないのです。「お母さんはガアの事ばっかりかわいがる」。幹太は泣いて私に激しく抗議するし、ガーランドはありとあらゆるいたずらをして私を困らせます。そんなふたりの子供の間に入って、お母さんの私はただただおろおろするばかりでした。どうしたらいいのーと悩み、悲痛な毎日でした。
平成7年1月から私は毎晩2時に起きて、朝ごはんの仕度にとりかかるまでの間夢中でこの原稿を書きました。勿論出版出来るなどという当てもないままに、ただただ私にもこんな幸せな時があったんだという思いだけで毎晩ワープロに向かったのです。


「ガーランドの瞳」


イースト・プレス
初版 1999年5月(絶版)
ガーランドの3歳2ヶ月という若い死は、母親の私にとってあまりに悲しい出来事でした。「死」という悲しみを乗り越えて、それでも前を向いて生きて行かなければと思いました。しかしこの原稿は『ベルナのしっぽ』を書いた時のように潤滑に進みませんでした。毎晩必死にワープロに向かって1年3ヶ月かかってしまいました。そして3回書きなおして4回目でやっと1冊の本として誕生したのです。
この原稿を書きながら私自身涙を何回も流し、前にすすめなかったことがずいぶんありました。