『しっぽのある娘たちと共に 1』

「グッバイ。」と もの見る事と職と恋に
軽く手を振り 27歳を生きる

 1972年の夏、私は自分の両目の視力が2度ともどってはこない事を、誰も私には告げてはくれなかったけれど、病室のベッドの上で悟りました。
その年の新春早々緊急入院という事で、東京文京区N医科大学付属病院の眼科病室にあたふたと入院した私のベッドの枕元には小さなラジオから、《コンドルは飛んで行く》の大空を大鳥ガ悠然と飛んでいるイメージのメロディーが流れていました。
そして、その日は私の27歳の誕生日でもありました。
失明を悟ると同時に、私はそこまで育んできたものを潔く捨て去る決心もしました。といっても、その年の11月にほぼ10か月入院生活にピリオドを打ったものの、すぐに次の段階へ歩みを進めるだけの気力も、勇気も、心の底からわいてくる事はありませんでした。
心身共に疲れ果てた私には、1年6が月の間の当時借りていましたアパートでの巣ごもり生活が必要でした。
その間、母の介護を受けながら、さまざまな事に思い巡らし、強い薬から強い薬への綱渡りで30キログラム代にやせ細ってしまった体を養い、枯渇してしまった《私の夢》ってなんだろうかと考えるだけの《時》が私には必要だったのです。
光も影もまったく見えなくなってしまった私の描ける夢って何だろうかと思い巡らし、そして行き着いた結論は《お母さんになりたい》という事でした。
それも、《目が見えなくても見えるお母さんのように、子育てのできるお母さんに、私はなりたい》と想ったのです。
目指す目標は決まりました、「よーし、がんばろう!」という決意も心の底から少しずつわいてくる手応えもありました。
そして再起をかけて私はたちあがったのです。
 1974年夏、白い杖を右手に握った私の姿は、新宿区外山蝶の都立心身障がい者訓練センターの中庭にありました。
29歳の誕生日の日、私はここから自分の負った障害を友達として生きて行こうと再起を図っって立ち上がったのです。
目が見えなくても私は私、どこまでも私らしく生きていきたいという想いが唯一の財産でした。

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