『孤高の歯を抜きました』

 私は子供のころからうらやましがられるほど歯のじょうぶな子でした、もちろん敗戦直前の生まれですから栄養状態がよいわけでもなくて、歯はみーんな小さな、そして歯並びもわるくて隙間だらけでしたが、しかし1本、1本の歯は堅牢で、老歯医者の先生から「こういう歯はネズミ歯っていってね、じょうぶなんだよ」と褒められたりもしたのです。
しかしその歯が16年前の突然私個人を見舞ったあるトラブルで、ほんの1か月の間に総崩れ、次々と抜けていってしまったのです。
そして残った歯はほんの数本、しかも上歯の右奥の歯は周りは全滅、その歯もややぐらつきながらも残ったのですが、しかしそれから16年過ぎてのこの春にどうしても抜かなければならないほどゆらゆらになってしまったのです。
懸命に凛として起立、ゆらゆらしながらもきりきりしゃんの姿のりりしい若武者のような歯でしたが・・・・・・、しかし痛みは耐え難く、常に右半分の頭と顔の重苦しさには不快感がつきまとい、私もついに決心しました。
乳歯から永久歯に代わって何十年、生活の苦も楽もともにしてきた戦友のような歯でしたが、さよならと後ろを振り返るのはやめました。
その歯を抜いた日は春の絹糸のような雨降りの空模様の一日でした。

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